ディルク6世 (ホラント伯)
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ディルク6世 Dirk VI | |
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ホラント伯 | |
在位 | 1121年 - 1157年 |
出生 |
1110年ごろ |
死去 |
1157年8月6日 |
埋葬 | ホラント伯領、レインスブルフ修道院 |
子女 |
ディルク フロリス3世 ボードゥアン オットー1世 ディルク ソフィア ハーデヴィヒ ヒールトラウト ペトロニラ |
家名 | ホラント家 |
父親 | ホラント伯フロリス2世 |
母親 | ペトロニーユ・ド・ロレーヌ |
宗教 | キリスト教カトリック |
ディルク6世(Dirk VI, 1110年ごろ - 1157年8月6日)は、ホラント伯(在位:1121年 - 1157年)。
生涯
[編集]ディルク6世はホラント伯フロリス2世とペトロニーユ・ド・ロレーヌの息子である。母ペトロニーユはロレーヌ公ティエリー2世とヘートヴィヒ・フォン・フォルムバッハの娘で、神聖ローマ皇帝ロタール3世の異父妹にあたる。
父の死後に伯位を継承したが、幼年であったため1133年まで母ペトロニーユが摂政をつとめた。ホラント伯領はフランスに頼っており、1220/23年に皇帝ハインリヒ5世の怒りを買った。しかし、母の異父兄ロタール3世がハインリヒ5世の次の皇帝に選出されたとき、ディルクの立場は再び強くなった。ディルク6世は1127年に起こったフランドル継承戦争においてロレーヌ公ティエリー2世を支持し、フリースラント伯としてディルクと対立した自身の弟フロリス・デ・ズウォルテとも戦った。ディルクはホラント伯の権力を強め、ユトレヒト司教アンドリース・ファン・クアイクとの何年にもわたる戦いの後、司教領を完全にホラント伯の影響下に置いた。そうすることで、フォークト制が適用されたゲルデルンとの対比を強めた。ディルクは後にクアイクの主権を獲得し、フリースラント領を手にいれ、帝国への寄付を通じてコインを鋳造する権利を得た。ディルクは1157年にはユトレヒトで死去した。
子女
[編集]1137年以前に、ライネック伯オットー1世・フォン・ザルムの娘でベントハイム伯領の相続人であったゾフィー(1115年頃 - 1176年)と結婚した。ゾフィーは聖地巡礼の際に死去した。この結婚で以下の子女が生まれた。
- ディルク(1140年 - 1151年)
- フロリス3世(1138年頃 - 1190年) - ホラント伯
- ボードゥアン(1196年4月28日没) - ユトレヒト司教(1178年 - 1196年)
- オットー1世(1145年頃 - 1208年頃) - ベントハイム伯
- ディルク1世(1197年8月3日没) - ユトレヒト司教(1196年 - 1197年)
- ソフィア(1202年以降没) - レインスブルフ女子修道院長
- ハーデヴィヒ(1167年8月28日没) - レインスブルフ女子修道院の修道女
- ヒールトラウト(8月13日没)
- ペトロニラ(12月5日没)
参考文献
[編集]- Abraham Jacob van der Aa: Biographisch woordenboek der Nederlanden. Deel 4. J.J. van Brederode, Haarlem 1858, pp. 189–190.
- Pieter Lodewijk Muller (1877). "Dietrich VI.". Allgemeine Deutsche Biographie (ドイツ語). Vol. 5. Leipzig: Duncker & Humblot. p. 178.
- Poelman: Dirk VI. In: P.C. Molhuysen und P.J. Blok (ed.): Nieuw Nederlandsch Biografisch Woordenboek. Deel 1. A.W. Sijthoff, Leiden 1911, Sp. 720.
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